ゆうゆう自適。
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ロストックでは新聞は取っていないのですが、週1、2回届く情報誌(コミュニティ新聞みたいなもの)にはよく目を通しています。
さて、今週はどんな催しものがあるかなーとぼんやり紙面をながめていたら、「Stasi」(旧東ドイツの国家保安省、通称シュタージ)の文字が目に飛び込んできた。ロストック市内にあるシュタージ資料館で、かつて「国外逃亡を企てた罪」でシュタージに逮捕された夫婦が、自身の体験談を語るとのこと。
東ドイツ関係の勉強をしている身としては、この貴重な機会を逃すわけにはいかない!というわけで、行ってきました、資料館。前から行こう行こうとは思っていたけれど、どうせならツアーをやっている日がいい、ということで後回しになっていたんだった。
建物自体は文学部の校舎の隣にあって、何度か外から見たことはあったけれど、まさか迂回をしなければ入れない構造になっているとは思わなかった。入り口見つからなくて焦ったー。
今となっては「資料館」だけれど、旧東ドイツ時代は留置場でもあったこの建物は、なんとも重苦しい空気に包まれていた、……ような、気がする。
どきどきしながら足を踏み入れる。どこに行けばいいのかわからなかったので、とりあえず前の人について階段を上ろうとしたら「違います、こっちです!」と職員に地下に誘導された。地下か!それは想定外。
窓ひとつない地下のセミナー室。ほぼ満席。重苦しさもピーク。
ざっとあたりを見回してみると、トークゲストとほぼ同年代(50代~70代くらい?)のひとが圧倒的に多かった。この中では学生はマイノリティ。そして(やはりというかなんというか)非ヨーロッパ系と思しき外国人は自分ひとりだった。
2時間強のトークは、それはそれは濃厚だった。
ただ、自由に生きたかった。それだけの理由で、未来が閉ざされてしまう恐怖。
ご主人は戦前の生まれ。東ドイツという国ができたころには、すでに物ごころはついていた。
1970年代当時、海軍で働いていたご主人は、ある日を機に政府のありかたに疑問を持つようになり、東ドイツを去るつもりでいることを親しい人たちに伝えた。もっとも信頼していた親友が、シュタージの非公式協力者(Inoffizielle Mitarbeiter、IM)であったことも知らずに。
自分に近しい人間がIMかもしれないだなんて、誰が考えるだろう。心から信頼している相手が、裏では自分を政府に売り渡しているかもしれないだなんて、誰が考える?当時、東ドイツ市民の4人に1人はIM(その多くが期限つき)だったというし、クリスタ・ヴォルフやハイナー・ミュラーら著名人にもIMだった時期があるわけだけれど、「身近な人間がIMである可能性」が日常的にありえたことに改めて衝撃を受けた。
しばらくして、ご主人はシュタージに逮捕された。実刑2年。
奥さまと出会って、結婚して、子どもの誕生を控えていたときだったという。
奥さまとご主人は年齢が幾ばくか離れていて、奥さまが生まれたのは東ドイツが建国されたあと。
東ドイツの教育を受けた奥さまは、東ドイツという国のありかたに疑問を覚えたことはなかったらしい。「こういうものなんだ」と、ごく自然に現状を受け入れていた。自然な流れで社会主義統一党にも入党。子どもが好きで、学校で先生をしていた。
ご主人から逃亡の計画を聞かされていなかった奥さまは、なぜ彼が逮捕されたのかがわからず(ご主人は、未遂に終わった計画を話すことで奥さまを「共犯」にしてしまう事態を避けたかったとのこと)、混乱したものの、彼を信じて待つことにした。その間、シュタージが何度も何度も「生まれてくる子どもの父親が前科持ちだと教育に良くないから」と離婚を勧めてきたというから恐ろしい。(この圧迫にも耐えて毅然とご主人を待っていたというのだからすごい……)
それから10年。
ご主人は、奥さまが自分の意思で東ドイツを出たいというまで、自分からは動かない決意をしていた。
そんな折に、東ドイツは「女性も必要に応じて徴兵する」という声明を発表した。自分も娘もそんなばかげたことにはつきあっていられない、と、奥さまはご主人に「この国を出たい」と伝えたという。
東ドイツ政府にオーストリアへの出国を申請したものの、あっさりと拒否された彼らは、家の窓に「A」の文字(Ausreiseantrag-出国申請を出した、という印)を飾って、国を出る決意をしたことを公の場に向かって発信する。国を侮辱したという罪で奥さまは(子どもたちに害なす存在として)保育士の職を失い、ほどなくしてふたりとも逮捕されることに。
小学生の娘に事情を伝えることができないまま、取り調べを受けるふたり。
ご主人は即刑務所へ。奥さまは、正式な逮捕状が出るまで――明日かもしれないし、数ヵ月後かもしれない――は執行猶予がつくことに。
最終的にはふたりで2年弱の刑期を乗り切り、その後、全財産を放棄することを条件に西ドイツへ渡ることが許される。少々時間がかかったものの、東ドイツに残してきた娘や親も呼び寄せることができ、以来、ハンブルクで暮らしているという。
(ただ、娘さんたちを呼び寄せるにしても、「東ドイツに住んだことのない人間(=西ドイツ国民)しか迎えに寄こすことができない」「出国の日は東ドイツ側が決め、24時間以内に出国しなければいけない」……と、西ドイツに知り合いのいないご夫婦は死に物狂いで協力してくれる人を探し、その間、生きた心地がしなかったという。幸い、親戚の知人の好意により無事、家族を呼び寄せることができた)
途中で娘さんも証言をしたのだけれど、「ある日、学校から帰ったら母親の姿はなく、見知らぬ男の人が複数名家を取り調べていた」光景を目の当たりにしたときの恐怖は相当なものだったことだろう。
20年以上の時を費やして、少しずつ、少しずつ過去と向き合ってきた家族。
今もまだ、話せていないこと、理解できていないことや誤解していることがたくさんあるという。
決着をつけることができないでいるのは、IMをやっていた親友との対話。
東西ドイツ統一後、シュタージのドキュメントは閲覧可能になり、自分に関する調査書類も見ることができるようになった。(映画『善き人のためのソナタ』のラストのようなイメージ)
自分の資料に目を通し、自分の素行について報告を行っていたIMのコードネームを実名と照らし合わせたご主人は、自分を監視していたのが親友だったという事実に愕然としたという。
親友がIMだった時期は限られていて、彼が足を洗ってすでに20年近くが経とうとしている。まったく気がつかなかった。つい先日まで、何事もなかったかのように親しくしていた。仲間と集まって内密のはなしをするときには、部屋を提供してくれていた。自分が逮捕されたときには、妻の援助も買って出てくれていた。――それらすべてが、罪滅ぼしだった?
親友は、口を閉ざしたまま答えないという。
………
以前、ヨーンゾンの講演会で知り合ったおじいさんの身の上話を聞いたときも、大きな衝撃を受けた。
自分にとっては「ものがたり」に過ぎなかった歴史(ドイツ語だとどちらもGeschichte)が、たしかに色を帯びた瞬間だった。
今回のはなしも、自分の知っている「歴史」という「ものがたり」に色をつけてくれた。
ただの「知識」が、ようやく「現実」と結びつく。
それと同時に、自分はなにも知らないのだということを思い知らされる。
統一したといっても、このふたつのドイツの歴史の間には、未だに大きな大きな隔たりがある。
結局、「東ドイツの勉強をしたい」といっても、西側でぬくぬくと育った自分はなんにもわかっちゃいない。「知識」だけ蓄えても、なんの実感もわかない。
でも、「知る」ことすら当り前ではない時代だ。
前置きで資料館の職員さんが話していたけれど、現代史――東ドイツの歴史を授業で扱う学校は今も少ないらしく、問題になっている。10年前からちっとも変わっていないのだろうか。今、学校で教育を受けている子たちは、ほぼ全員、東西ドイツが統一したあとに生まれた子たちだというのに。
「わたしたちの身に起こったことを知ってほしいから、ここに来た」と、彼らはいった。
歴史を語る。それはただの「ものがたり」じゃなくて、本当に起こったこと。自分が生まれていた時代に、起こったこと。
わたしもドイツが統一したときは小学校低学年だったので、なにが起こったのかはさっぱり理解できていなかったけれど、生活はなんにも変わらなかったということだけはいえる。祝日が一日増えた「だけ」。首都が変わった「だけ」。ドイツの州が新たに5つ増えた「だけ」。その程度の変化。
要するに、統一しようとしなかろうと、西ドイツの人たちは(少なくとも80年代には)そこそこ平和に、豊かに暮らしていた。国境の向こうにあるもう一つのドイツで起こっていたことなんて、なんにも知らなかった。
東ドイツにも、平和に暮らしていた人たちはいるだろう。国の方針に従って慎ましやかに暮していれば、身を危険にさらすこともない。仕事も生活も保障される。たしかに、なにもいうことはない。彼らの目にはむしろ、統一したあとのドイツのほうが「ひどい国」に映るかもしれない。
「東ドイツはいい国だった」と、昔を懐かしむひともいる。
その一方で、壁が崩壊したことを心から喜んだひともいる。
言いたいことも言えない、
行きたいところにも行けない、
やりたいことさえできない。
統一しないほうがよかった、といえるひとは、東西ともに恵まれていたひとだったんだろう。
西側だけの問題じゃない。東側だって、当時の東ドイツの実態をわかっていない(わかっていなかった)ひとがたくさんいるんじゃないだろうか。
ナチスドイツの過ちを学校教育で念入りに扱うことに対して否定はしないけれど、それと同じだけの熱意で、戦後のドイツが歩んだ道についても教えるべきだと思う。「今」に直結しているからこそ。
過去を理解しようとしなければ、今、直面している問題を解決することなんて到底できない。
それはもちろん、自分の「しごと」も同じこと。
もっと勉強しなければ。
ここで見たこと、聞いたこと、すべてを還元できるようになりたい。
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かれんだー
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ぷろふぃーる
日本の大学院で現代ドイツ文学を勉強中。ただいま、ドイツにて「しゅっちょう」修行の旅の途中。今やすっかりメクレンブルクの空と大地と海に心を奪われています。
夢は、日本とドイツをつなぐ「ことばや」さんになること。
深刻になりすぎず、でも真剣に。
こつこつ、しっかり、マイペース。がんばりすぎない程度にがんばります。
2010年4月-9月までロストック(メクレンブルク・フォアポンメルン州)、10月-2011年3月までベルリンに滞在。再度ドイツに留学することが、今後の目標のひとつ。
ぽつぽつと、不定期的に過去の日記を埋めていきます。