ゆうゆう自適。
つらつら、まったり。つれづれ(不定期)雑記帳。海風薫るロストックから伯林、そして再び東京へ。再びドイツへ「帰る」日を夢見て、今日も今日とてしゅぎょう中。
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先月はじめて足を運んだシュタージ資料館の、一般公開ツアーに行ってきました。
実はこの前日にも「旧東ドイツにおける反対運動と抵抗」という展示の内覧会にも参加していて、2日連続でここに来ていることになる。
この資料館は、かつて政治犯収容所(Untersuchungshaft、略してU-Haft)としてシュタージが取り調べ・収監に使っていた施設で、現在はロストック大学の所有となっています。文学部の裏手にあるのですが、表通りからは直接アクセスできないようになっていて(今は文学部の脇に細い道があります)、ちょっと行きづらいなあ……と思っていたら、市民にその存在が知られないように裏通りに「隠して」いたのだとか!すぐ近くに高層のアパートがありますが、シュタージの関係者しか入居できないようにして、徹底的に情報をシャットアウトしていた模様。ひええ。
すごく天気がいいのでなんとなく普通の建物のように見えますが、実際に前に立つと、どんよりとした空気がひしひしと伝わってきます。ベルリンのシュタージ博物館ほどではないけれど、ここも最初は入るのがためらわれた。
中に入ると、公開ツアー待ちの高校生(推定)のグループが狭いスペースに所狭しと座り込んでいた。とりあえずここにいればいいのかな?と、恐る恐る適当な場所で同じく待機。しばらくすると、資料館の職員さんがやってきて、ツアーがはじまった。
まずは地下に移動して、「政治犯を輸送」するためのカモフラージュ・トラックを見る。外から見るとなんの変哲もない普通のトラックだけれど、中に入ると、狭い「囚人ボックス」が5つ、ずらっと並んでいた。ためしに入ってみた……けれど、窓はないし狭いし、暗所と閉所が得意ではない自分にとっては、想像を絶する仕打ちであることこの上ない。不当に逮捕されて、どこに連れて行かれるかもわからないなんて、とてつもなく恐ろしい話だ。
お次は、独房のフロア。前日に、展示を見るついでにちょっと(勝手に)うろうろしていたので、全く知らない場所ではなかったけれど……解説を聞いた上で改めて回ると、背筋がぞくり、とする。
ちなみにこのフロア、床にガラスが入っているのですが、老朽化が進んでいて壊れる危険があるので、「一か所に固まらないでください」という注意を受けた。公式ホームページを見ると「1平方メートルに2人以上立たないでください」とまで書いてある。物理的な意味でおそろしい!
独房の中を紹介。
奥にベッドがありますが、これは就寝時以外は使用不可。起きている間は、特別な指示がない限りスツールに腰かけていることが義務づけられています。
寝ているときは寝ているときで、数分に一回、監視員が巡回にやってきてランプをつけて、(ドアについている小窓から)中を確認する。当然、睡眠障害を引き起こします。肉体的な暴力が振るわれることはほとんどなかったようで、その分、精神的な暴力が徹底的に振るわれた模様。「病院に入ったほうがマシな生活ができる」ということで、あの手この手で自殺をしようとする人が後を絶たなかったようです。(結果として、「狂器になりそうなもの」は就寝時にはすべて没収)
囚人たちには、一日一回、数分間、外の「庭」に出ることが許されていたようです。ただし、外に連れ出されるときはほかの囚人と顔を合わせないように示しあわされ、相部屋でもない限り、孤独な生活を強いられていたようです。
そしてこの「庭」。たかーい壁に囲まれた、なんにもないスペースがあるだけで、見えるのはせいぜい空のみ。同じようなスペースが3つあって、同時に3人、外に出られるようになっています。この壁も一部が崩壊していて、当時は2階、3階に達するまでの高さがあったそうです。その上に巡回の監視員(威嚇のための銃所持)がいたため、壁の反対側にいる囚人に声をかけることもかなわなかったと。
この後、地下にある「拘禁所」も見せてもらいました。
一種の「おしおき部屋」で、監視員に逆らったりした場合、明かり一つない地下室に数日間監禁された模様。これがじめじめしたところで、雨が降れば(今でも)浸水するような粗末な作りでしかないので、もう精神的苦痛以外のなにものでもない。
文献を読んでいると、シュタージという組織がいかに非道であったかは知識として理解はできるけれど、実感をすることは到底できない。こうやって現場を見たら実感できるのか、と訊かれたら、もちろん答えはノーだけど、それでもここで行われたことの片鱗を感じ取ることはできる。
かつてのシュタージの関係者は、すでに資料によってその事実が裏付けされているにもかかわらず、そろってこれらの施設で行われたことを否定しているのだそうです。
人間としてごく当然の権利を主張した結果、こんなところにいれられたりなんかしたら、「東ドイツはとても幸せな国でした」なんて言えるはずもない。そして西ドイツでよく言われるように「東ドイツは自由がなくて大変な国だったんだねえ」で済まされる話でもない。
じゃあ、どうすればいいのか。かくいう自分も、この認識以上の答えを未だに出せていない。東ドイツに残っていた作家たちは、なにを思っていたのか。なにを思って、「声」を押し殺していたのか。あるいは、シュタージに協力したのか……。このあたりを、まだクリアに捉えることができない気がする。
ドイツにいる間に、そこまでたどり着ければ。そのためには、もっともっと勉強をしなければ。
実はこの前日にも「旧東ドイツにおける反対運動と抵抗」という展示の内覧会にも参加していて、2日連続でここに来ていることになる。
この資料館は、かつて政治犯収容所(Untersuchungshaft、略してU-Haft)としてシュタージが取り調べ・収監に使っていた施設で、現在はロストック大学の所有となっています。文学部の裏手にあるのですが、表通りからは直接アクセスできないようになっていて(今は文学部の脇に細い道があります)、ちょっと行きづらいなあ……と思っていたら、市民にその存在が知られないように裏通りに「隠して」いたのだとか!すぐ近くに高層のアパートがありますが、シュタージの関係者しか入居できないようにして、徹底的に情報をシャットアウトしていた模様。ひええ。
すごく天気がいいのでなんとなく普通の建物のように見えますが、実際に前に立つと、どんよりとした空気がひしひしと伝わってきます。ベルリンのシュタージ博物館ほどではないけれど、ここも最初は入るのがためらわれた。
中に入ると、公開ツアー待ちの高校生(推定)のグループが狭いスペースに所狭しと座り込んでいた。とりあえずここにいればいいのかな?と、恐る恐る適当な場所で同じく待機。しばらくすると、資料館の職員さんがやってきて、ツアーがはじまった。
まずは地下に移動して、「政治犯を輸送」するためのカモフラージュ・トラックを見る。外から見るとなんの変哲もない普通のトラックだけれど、中に入ると、狭い「囚人ボックス」が5つ、ずらっと並んでいた。ためしに入ってみた……けれど、窓はないし狭いし、暗所と閉所が得意ではない自分にとっては、想像を絶する仕打ちであることこの上ない。不当に逮捕されて、どこに連れて行かれるかもわからないなんて、とてつもなく恐ろしい話だ。
お次は、独房のフロア。前日に、展示を見るついでにちょっと(勝手に)うろうろしていたので、全く知らない場所ではなかったけれど……解説を聞いた上で改めて回ると、背筋がぞくり、とする。
ちなみにこのフロア、床にガラスが入っているのですが、老朽化が進んでいて壊れる危険があるので、「一か所に固まらないでください」という注意を受けた。公式ホームページを見ると「1平方メートルに2人以上立たないでください」とまで書いてある。物理的な意味でおそろしい!
独房の中を紹介。
奥にベッドがありますが、これは就寝時以外は使用不可。起きている間は、特別な指示がない限りスツールに腰かけていることが義務づけられています。
寝ているときは寝ているときで、数分に一回、監視員が巡回にやってきてランプをつけて、(ドアについている小窓から)中を確認する。当然、睡眠障害を引き起こします。肉体的な暴力が振るわれることはほとんどなかったようで、その分、精神的な暴力が徹底的に振るわれた模様。「病院に入ったほうがマシな生活ができる」ということで、あの手この手で自殺をしようとする人が後を絶たなかったようです。(結果として、「狂器になりそうなもの」は就寝時にはすべて没収)
囚人たちには、一日一回、数分間、外の「庭」に出ることが許されていたようです。ただし、外に連れ出されるときはほかの囚人と顔を合わせないように示しあわされ、相部屋でもない限り、孤独な生活を強いられていたようです。
そしてこの「庭」。たかーい壁に囲まれた、なんにもないスペースがあるだけで、見えるのはせいぜい空のみ。同じようなスペースが3つあって、同時に3人、外に出られるようになっています。この壁も一部が崩壊していて、当時は2階、3階に達するまでの高さがあったそうです。その上に巡回の監視員(威嚇のための銃所持)がいたため、壁の反対側にいる囚人に声をかけることもかなわなかったと。
この後、地下にある「拘禁所」も見せてもらいました。
一種の「おしおき部屋」で、監視員に逆らったりした場合、明かり一つない地下室に数日間監禁された模様。これがじめじめしたところで、雨が降れば(今でも)浸水するような粗末な作りでしかないので、もう精神的苦痛以外のなにものでもない。
文献を読んでいると、シュタージという組織がいかに非道であったかは知識として理解はできるけれど、実感をすることは到底できない。こうやって現場を見たら実感できるのか、と訊かれたら、もちろん答えはノーだけど、それでもここで行われたことの片鱗を感じ取ることはできる。
かつてのシュタージの関係者は、すでに資料によってその事実が裏付けされているにもかかわらず、そろってこれらの施設で行われたことを否定しているのだそうです。
人間としてごく当然の権利を主張した結果、こんなところにいれられたりなんかしたら、「東ドイツはとても幸せな国でした」なんて言えるはずもない。そして西ドイツでよく言われるように「東ドイツは自由がなくて大変な国だったんだねえ」で済まされる話でもない。
じゃあ、どうすればいいのか。かくいう自分も、この認識以上の答えを未だに出せていない。東ドイツに残っていた作家たちは、なにを思っていたのか。なにを思って、「声」を押し殺していたのか。あるいは、シュタージに協力したのか……。このあたりを、まだクリアに捉えることができない気がする。
ドイツにいる間に、そこまでたどり着ければ。そのためには、もっともっと勉強をしなければ。
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YuN
ドイツ生まれ、ドイツ育ちの「なんとなく日本人」。根っからのラインラントっこ。
日本の大学院で現代ドイツ文学を勉強中。ただいま、ドイツにて「しゅっちょう」修行の旅の途中。今やすっかりメクレンブルクの空と大地と海に心を奪われています。
夢は、日本とドイツをつなぐ「ことばや」さんになること。
深刻になりすぎず、でも真剣に。
こつこつ、しっかり、マイペース。がんばりすぎない程度にがんばります。
2010年4月-9月までロストック(メクレンブルク・フォアポンメルン州)、10月-2011年3月までベルリンに滞在。再度ドイツに留学することが、今後の目標のひとつ。
ぽつぽつと、不定期的に過去の日記を埋めていきます。
日本の大学院で現代ドイツ文学を勉強中。ただいま、ドイツにて「しゅっちょう」修行の旅の途中。今やすっかりメクレンブルクの空と大地と海に心を奪われています。
夢は、日本とドイツをつなぐ「ことばや」さんになること。
深刻になりすぎず、でも真剣に。
こつこつ、しっかり、マイペース。がんばりすぎない程度にがんばります。
2010年4月-9月までロストック(メクレンブルク・フォアポンメルン州)、10月-2011年3月までベルリンに滞在。再度ドイツに留学することが、今後の目標のひとつ。
ぽつぽつと、不定期的に過去の日記を埋めていきます。