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ゆうゆう自適。

つらつら、まったり。つれづれ(不定期)雑記帳。海風薫るロストックから伯林、そして再び東京へ。再びドイツへ「帰る」日を夢見て、今日も今日とてしゅぎょう中。
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先月はじめて足を運んだシュタージ資料館の、一般公開ツアーに行ってきました。
実はこの前日にも「旧東ドイツにおける反対運動と抵抗」という展示の内覧会にも参加していて、2日連続でここに来ていることになる。

eaca773d.JPGこの資料館は、かつて政治犯収容所(Untersuchungshaft、略してU-Haft)としてシュタージが取り調べ・収監に使っていた施設で、現在はロストック大学の所有となっています。文学部の裏手にあるのですが、表通りからは直接アクセスできないようになっていて(今は文学部の脇に細い道があります)、ちょっと行きづらいなあ……と思っていたら、市民にその存在が知られないように裏通りに「隠して」いたのだとか!すぐ近くに高層のアパートがありますが、シュタージの関係者しか入居できないようにして、徹底的に情報をシャットアウトしていた模様。ひええ。
すごく天気がいいのでなんとなく普通の建物のように見えますが、実際に前に立つと、どんよりとした空気がひしひしと伝わってきます。ベルリンのシュタージ博物館ほどではないけれど、ここも最初は入るのがためらわれた。

中に入ると、公開ツアー待ちの高校生(推定)のグループが狭いスペースに所狭しと座り込んでいた。とりあえずここにいればいいのかな?と、恐る恐る適当な場所で同じく待機。しばらくすると、資料館の職員さんがやってきて、ツアーがはじまった。

まずは地下に移動して、「政治犯を輸送」するためのカモフラージュ・トラックを見る。外から見るとなんの変哲もない普通のトラックだけれど、中に入ると、狭い「囚人ボックス」が5つ、ずらっと並んでいた。ためしに入ってみた……けれど、窓はないし狭いし、暗所と閉所が得意ではない自分にとっては、想像を絶する仕打ちであることこの上ない。不当に逮捕されて、どこに連れて行かれるかもわからないなんて、とてつもなく恐ろしい話だ。

d6227098.JPGお次は、独房のフロア。前日に、展示を見るついでにちょっと(勝手に)うろうろしていたので、全く知らない場所ではなかったけれど……解説を聞いた上で改めて回ると、背筋がぞくり、とする。
ちなみにこのフロア、床にガラスが入っているのですが、老朽化が進んでいて壊れる危険があるので、「一か所に固まらないでください」という注意を受けた。公式ホームページを見ると「1平方メートルに2人以上立たないでください」とまで書いてある。物理的な意味でおそろしい!

640420a1.JPG独房の中を紹介。
奥にベッドがありますが、これは就寝時以外は使用不可。起きている間は、特別な指示がない限りスツールに腰かけていることが義務づけられています。
寝ているときは寝ているときで、数分に一回、監視員が巡回にやってきてランプをつけて、(ドアについている小窓から)中を確認する。当然、睡眠障害を引き起こします。肉体的な暴力が振るわれることはほとんどなかったようで、その分、精神的な暴力が徹底的に振るわれた模様。「病院に入ったほうがマシな生活ができる」ということで、あの手この手で自殺をしようとする人が後を絶たなかったようです。(結果として、「狂器になりそうなもの」は就寝時にはすべて没収)

BLOG6759.JPG囚人たちには、一日一回、数分間、外の「庭」に出ることが許されていたようです。ただし、外に連れ出されるときはほかの囚人と顔を合わせないように示しあわされ、相部屋でもない限り、孤独な生活を強いられていたようです。
そしてこの「庭」。たかーい壁に囲まれた、なんにもないスペースがあるだけで、見えるのはせいぜい空のみ。同じようなスペースが3つあって、同時に3人、外に出られるようになっています。この壁も一部が崩壊していて、当時は2階、3階に達するまでの高さがあったそうです。その上に巡回の監視員(威嚇のための銃所持)がいたため、壁の反対側にいる囚人に声をかけることもかなわなかったと。

この後、地下にある「拘禁所」も見せてもらいました。
一種の「おしおき部屋」で、監視員に逆らったりした場合、明かり一つない地下室に数日間監禁された模様。これがじめじめしたところで、雨が降れば(今でも)浸水するような粗末な作りでしかないので、もう精神的苦痛以外のなにものでもない。

文献を読んでいると、シュタージという組織がいかに非道であったかは知識として理解はできるけれど、実感をすることは到底できない。こうやって現場を見たら実感できるのか、と訊かれたら、もちろん答えはノーだけど、それでもここで行われたことの片鱗を感じ取ることはできる。


かつてのシュタージの関係者は、すでに資料によってその事実が裏付けされているにもかかわらず、そろってこれらの施設で行われたことを否定しているのだそうです。


人間としてごく当然の権利を主張した結果、こんなところにいれられたりなんかしたら、「東ドイツはとても幸せな国でした」なんて言えるはずもない。そして西ドイツでよく言われるように「東ドイツは自由がなくて大変な国だったんだねえ」で済まされる話でもない。
じゃあ、どうすればいいのか。かくいう自分も、この認識以上の答えを未だに出せていない。東ドイツに残っていた作家たちは、なにを思っていたのか。なにを思って、「声」を押し殺していたのか。あるいは、シュタージに協力したのか……。このあたりを、まだクリアに捉えることができない気がする。

ドイツにいる間に、そこまでたどり着ければ。そのためには、もっともっと勉強をしなければ。
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サッカー観戦と発表の準備に追われている今日この頃です。

今日も今日とて、午後にW杯ドイツ戦をネットのlive streamで観戦し(最大1分近くタイムラグがあったので、半ば外の反応から予想する感じになっていたけれど……)、ヒートアップしたところで、夜からはフィルハーモニー・コンサートへ行ってきました。北ドイツ・フィルハーモニー・ロストック!

最近届いた実家からの「救援物資」に、おでかけ用のワンピースと靴を入れてもらったので、どうにかクラシック・コンサートっぽい装いにはなりました。


コンサート会場は、なんと造船所跡。
さすが海の街ロストック、といったところでしょうか。

なんとなく位置は確認していたので、なんとなく会場を目指してみた。
会場近くでコンサートに行くと思われるシックな人々と一緒になったので、「彼らについて行けばだいじょうぶそう」という大体アテにならない直感を頼りに歩きましたが、無事にたどり着きました。

BLOG6639.JPGごっつい大きな扉の向こうには、まさに造船所仕様のコンサートホール。
わたしの席はちょうどワンクラス上のシートの境目にあったので、舞台もよく見える。
来客層は年配の方が多くて、ちょっとびっくりした。こんなものなのかな。みんなそれぞれおしゃれをしているけれど、音を合わせる段階になってもおしゃべりが止まず、なんかピアノ教室の発表会みたいな雰囲気になっていた。アットホームといえば、まあ、そうかなという感じもするけれど。(割とリラックスして聴ける感じではある)ドイツでクラシックコンサートを聴きに行ったことがほとんどないので、場の空気というのがよくわからない。

最初の一曲目は、ヨーゼフ・ハイドンの交響曲85番「ラ・レーヌ」。
マリー・アントワネットがこよなく愛したという逸話があるそうです。
メヌエット形式。ゆったり、ゆったり、穏やかな曲調なので、一曲目にして猛烈な睡魔に襲われました。気合いを入れて、音に耳を傾ける。

二曲目はピョートル・チャイコフスキー(ドイツ語だとペーターになっていて違和感を覚える)の「ロココの主題による変奏曲」。チェロと管弦楽のための作品。
ハイドンとはまた違った優美さ。少しずつ、少しずつ曲が変わっていく様にわくわくして、ここに来て眠気が一気に吹き飛ぶ。チェリストの演奏が情感たっぷりですてきだった。

休憩をはさんで、三曲目はマックス・ブルッフの「コル・ニドライ」。これもやっぱりチェロと管弦楽のための曲。
ユダヤの旋律をモチーフにしているということですが、シロウトの耳には「ああこれがユダヤの旋律ね」なんてわかるはずもない。ただ、どこかで聴いたような、どこか物悲しくてなつかしい、そんな曲だった。
ブルッフの曲ははじめて聴くけれど、先のハイドン・チャイコフスキーとはまた雰囲気が違う。いろいろと楽しめるプログラムになっている。

ラストは、イーゴリ・ストラヴィンスキーの「火の鳥」!
北ドイツ・フィル・ロストックとチェリストさんの共演が目玉である今回のコンサートですが、なにを隠そう、わたしはこの「火の鳥」目当てで来ました。(いや、チェリストさんの演奏は素晴らしかったのであやまりますごめんなさい)
「火の鳥」は、「魔王カスチェイの凶悪な踊り」~「子守唄」~「フィナーレ」しか聴いたことがないので、一度通して聴いてみたかった。

「序奏」~「火の鳥と踊り」~「ヴァリアシオン:火の鳥」~「王女の輪舞」、そしておなじみの「魔王カスチェイの凶悪な踊り」~「子守唄」~「フィナーレ」の流れ。

感覚だけで物を言います。「ものがたり」が見える、そんな曲でした。
「火の鳥」ってこんなに多彩な音が使われているんだ!演奏者が楽器を持ち帰るのに忙しそうでした。「魔王カスチェイの凶悪な踊り」のイントロ部分は鳥肌が立った……!生演奏すごい!ほんとにすごい!
 

いや、もう、大満足です。


はわー、これは機会があったら定期的に足を運びたいなあ。


指揮者の動きがとってもキュート(体全体で曲を表現!)で、ずっと釘つけになっていました。すてき。

寮の仲間のお部屋で、ドイツ対ガーナ戦を見てきました。
人数は15人くらい。初戦の30人に比べれば、おとなしいほう……なのかな。

壁にパソコンの画面を投影してみんなで見る、という本格仕様。
大迫力だけれど、最前列に座ってずっと壁を見上げていたので、ちょっと疲れた。そうか、最前列で映画見ているようなものだもんね。

応援Tシャツを着たり、ペイントをしたり、気合いの入っているひともいる。
でも、試合運びには特に興味がなく、ベランダでバーベキューに興じているひともいる。

それぞれ。

トーナメント進出がかかっていたので、みんなもっと騒ぐかなあと思いきや、意外とみんな静かに観戦していました。……いや、ドイツのプレーがあまりに危なっかしいので、じっと見ていざるを得なかった、というのが正しいのかも。ところどころでヤジが飛んだりして、「ひー、ナショナリズム全開!」とひやひやしたりも。(このあたりは割愛)


ゴールが決まった瞬間はみんなで歓声。
オーストラリアが(対セルビア戦で)ゴールを決めても歓声。

開け放したドアの外から聞こえてくるブブセラ。
外のほうが盛り上がっている?


試合終了後は、喝采こそあれ、割とすみやかに解散。
飲み足りない人たちは、そのまま夜の街へと繰り出した模様。

ホストと同じ寮内に住んでいるのは自分だけだったので、数人残った男性陣と一緒にお片づけ。この段階になってようやく「はじめまして」なひとたち(ホスト以外ほぼ全員)とちょっと話ができた。
日本でもドイツでも、すでにグループができているところに入っていくのは得意ではないので、ここはもうちょっとがんばらないとなあとしみじみ思う。みんなフレンドリーなのはわかっているんだし、あとは自分次第。

(今になって、強引でむちゃくちゃなところもあるけれど、なにかと気にかけてくれる上の隣人のありがたみがよくわかる)

手ぶらで行くのもな、ということでティラミスを作って持参したのだけれど、ホストの冷蔵庫に入れたまますっかり存在を忘れてしまい、終わり際に「そのまま持って帰ってもいいよ」と言われる始末。
えええ、それはあまりに切ない!ちょっとだけでも食べない?とねばってみたところ、「ステーキ4、5枚食べて満腹だよ」という答えが返ってきた。そんなに食べたんか!やっぱりドイツ人パーティーには肉を持参したほうがいいのか……!

仕方ない持って帰るか、と思いはじめたところで、
ホストをはじめ、その場にいた男性陣「一口だけでも……」とちょっとずつ食べてくれた。なんだかんだで、半分くらい。ジェントルメン……!

フィンガービスケットが水っぽくなりすぎたのがちょっと残念だけれど、ひとまず「食えたもんじゃない」という類の酷評は出てこなかったので、一安心。(凍らせたらもっとおいしくなるんじゃない?というアドバイスが誠実な感じで、むしろ嬉しかった)


次はもっとガッツを出します。おー!

ロストックに来て2か月、はじめての「お客さん」が遊びに来ました。
ロストック滞在中の「裏ミッション」は「ロストックを紹介する」ことなので、いよいよ行動開始です。みっしょん・すたーと!

「自分のお気に入りの場所を紹介しよう!」と思い立って、

・旧市街
・Kröpeliner通り
・ヴァルノウ川のプロムナード
・Gehlsdorf(フェリー)

に連れて行ったら、なんと疲れさせてしまった しまった、長旅で疲れている人を更に疲れさせてしまうなんて、失態!

「ごめん、お気に入りの散歩コースを紹介しようと思って」と言ったら、
「体力あるね」と返された。

……もしかしなくとも、やたらと散歩するせいで脚力がついたんだろうか……。

ストップ入らなかったらGehlsdorfでも往復40分くらい歩くところだったよ、本気でごめん。


翌日は気を取り直して、やはりお気に入りの場所・ヴァルネミュンデへ。
ロストックまで来て、バルト海を見ずに帰ってもらうわけにはいかない!ドイツで海を見る機会なんて(たぶん)そうそうないんだから!

BLOG6591.JPG雨の晴れ間!気持ちのいいお散歩日和!
天気予報では雨って聞いていたから、晴れて本当によかった。ここ数日間、天気予報が外れまくっているけれど、今日に限ってはいいほうに転んだな。(朝は雨が降っていたので、厳密にいえば外れてもいないんだけれど)


今回は、ランドマークである灯台に登ってみました。
ヴァルノウ川が一望できます。河口も見える!
BLOG6590.JPG
反対側には、どこまでも果てしなく続くバルト海。うーん、何度見てもすばらしい景色。飽き足らない。
展望台からはヴァルネミュンデのビーチも見ることができます。上から見ると、トラーヴェミュンデで歩いたプロムナードによく似ている。そっちにも行ってみたいけれど、地図に書いてある「FKK(裸体礼賛運動?)ビーチ」の前にしり込みする。うーん。見えちゃうのかなあ。

バルト海の波は、短いのだそうです。
低地ドイツ語でいうと、ヨーンゾン曰くkabbelig。

Das Wort für die kurzen Wellen der Ostsee ist kabbelig gewesen. (Jahrestage1, 7)

バルト海の短い波を指す言葉は、kabbeligといった。


……方言に関しては、今のところ気のきいた翻訳が思い浮かばないので、そのままに。


夜はお魚を食べに行きました。
ひとつは、ヨーンゾン学会のときに知り合った先生に教えてもらったお店。もうひとつは、ガイドを参考にして探したお店。2件目のお店は雰囲気がすごくすてきで、次にお客さんが来たときには、ぜひともここに連れてきたい。ロストックビールあるし!

ちょっとでも、ロストックという街を楽しんでもらえたなら、いいな。
ああ、それにしても、ロストックで(人と向かい合って)日本語しゃべったのはじめてなので、なんだか不思議。


おまけ。

BLOG6589.JPG中央駅のカフェで食べた焼き菓子。
Hanseaten(ハンザ同盟都市の市民)という。

イチゴジャムとお砂糖のコーティングしたビスケット・サンド。中にもジャムが挟んであります。美味。

これは地方のお菓子?それとも単に「東京××」みたいな名前をつけただけ?
ぐーぐる先生に尋ねてみたら、「Hanseaten」で同じ画像がいくつか出てきたので、ご当地のお菓子と思ってもよさそう。

でも、近所のカフェでは見たことないな……。

ロストックでは新聞は取っていないのですが、週1、2回届く情報誌(コミュニティ新聞みたいなもの)にはよく目を通しています。

さて、今週はどんな催しものがあるかなーとぼんやり紙面をながめていたら、「Stasi」(旧東ドイツの国家保安省、通称シュタージ)の文字が目に飛び込んできた。ロストック市内にあるシュタージ資料館で、かつて「国外逃亡を企てた罪」でシュタージに逮捕された夫婦が、自身の体験談を語るとのこと。

東ドイツ関係の勉強をしている身としては、この貴重な機会を逃すわけにはいかない!というわけで、行ってきました、資料館。前から行こう行こうとは思っていたけれど、どうせならツアーをやっている日がいい、ということで後回しになっていたんだった。
建物自体は文学部の校舎の隣にあって、何度か外から見たことはあったけれど、まさか迂回をしなければ入れない構造になっているとは思わなかった。入り口見つからなくて焦ったー。

今となっては「資料館」だけれど、旧東ドイツ時代は留置場でもあったこの建物は、なんとも重苦しい空気に包まれていた、……ような、気がする。
どきどきしながら足を踏み入れる。どこに行けばいいのかわからなかったので、とりあえず前の人について階段を上ろうとしたら「違います、こっちです!」と職員に地下に誘導された。地下か!それは想定外。

窓ひとつない地下のセミナー室。ほぼ満席。重苦しさもピーク。

ざっとあたりを見回してみると、トークゲストとほぼ同年代(50代~70代くらい?)のひとが圧倒的に多かった。この中では学生はマイノリティ。そして(やはりというかなんというか)非ヨーロッパ系と思しき外国人は自分ひとりだった。


2時間強のトークは、それはそれは濃厚だった。


ただ、自由に生きたかった。それだけの理由で、未来が閉ざされてしまう恐怖。

ご主人は戦前の生まれ。東ドイツという国ができたころには、すでに物ごころはついていた。
1970年代当時、海軍で働いていたご主人は、ある日を機に政府のありかたに疑問を持つようになり、東ドイツを去るつもりでいることを親しい人たちに伝えた。もっとも信頼していた親友が、シュタージの非公式協力者(Inoffizielle Mitarbeiter、IM)であったことも知らずに。
自分に近しい人間がIMかもしれないだなんて、誰が考えるだろう。心から信頼している相手が、裏では自分を政府に売り渡しているかもしれないだなんて、誰が考える?当時、東ドイツ市民の4人に1人はIM(その多くが期限つき)だったというし、クリスタ・ヴォルフやハイナー・ミュラーら著名人にもIMだった時期があるわけだけれど、「身近な人間がIMである可能性」が日常的にありえたことに改めて衝撃を受けた。

しばらくして、ご主人はシュタージに逮捕された。実刑2年。
奥さまと出会って、結婚して、子どもの誕生を控えていたときだったという。

奥さまとご主人は年齢が幾ばくか離れていて、奥さまが生まれたのは東ドイツが建国されたあと。
東ドイツの教育を受けた奥さまは、東ドイツという国のありかたに疑問を覚えたことはなかったらしい。「こういうものなんだ」と、ごく自然に現状を受け入れていた。自然な流れで社会主義統一党にも入党。子どもが好きで、学校で先生をしていた。

ご主人から逃亡の計画を聞かされていなかった奥さまは、なぜ彼が逮捕されたのかがわからず(ご主人は、未遂に終わった計画を話すことで奥さまを「共犯」にしてしまう事態を避けたかったとのこと)、混乱したものの、彼を信じて待つことにした。その間、シュタージが何度も何度も「生まれてくる子どもの父親が前科持ちだと教育に良くないから」と離婚を勧めてきたというから恐ろしい。(この圧迫にも耐えて毅然とご主人を待っていたというのだからすごい……)


それから10年。
ご主人は、奥さまが自分の意思で東ドイツを出たいというまで、自分からは動かない決意をしていた。

そんな折に、東ドイツは「女性も必要に応じて徴兵する」という声明を発表した。自分も娘もそんなばかげたことにはつきあっていられない、と、奥さまはご主人に「この国を出たい」と伝えたという。
東ドイツ政府にオーストリアへの出国を申請したものの、あっさりと拒否された彼らは、家の窓に「A」の文字(Ausreiseantrag-出国申請を出した、という印)を飾って、国を出る決意をしたことを公の場に向かって発信する。国を侮辱したという罪で奥さまは(子どもたちに害なす存在として)保育士の職を失い、ほどなくしてふたりとも逮捕されることに。

小学生の娘に事情を伝えることができないまま、取り調べを受けるふたり。
ご主人は即刑務所へ。奥さまは、正式な逮捕状が出るまで――明日かもしれないし、数ヵ月後かもしれない――は執行猶予がつくことに。

最終的にはふたりで2年弱の刑期を乗り切り、その後、全財産を放棄することを条件に西ドイツへ渡ることが許される。少々時間がかかったものの、東ドイツに残してきた娘や親も呼び寄せることができ、以来、ハンブルクで暮らしているという。
(ただ、娘さんたちを呼び寄せるにしても、「東ドイツに住んだことのない人間(=西ドイツ国民)しか迎えに寄こすことができない」「出国の日は東ドイツ側が決め、24時間以内に出国しなければいけない」……と、西ドイツに知り合いのいないご夫婦は死に物狂いで協力してくれる人を探し、その間、生きた心地がしなかったという。幸い、親戚の知人の好意により無事、家族を呼び寄せることができた)

途中で娘さんも証言をしたのだけれど、「ある日、学校から帰ったら母親の姿はなく、見知らぬ男の人が複数名家を取り調べていた」光景を目の当たりにしたときの恐怖は相当なものだったことだろう。


20年以上の時を費やして、少しずつ、少しずつ過去と向き合ってきた家族。
今もまだ、話せていないこと、理解できていないことや誤解していることがたくさんあるという。

決着をつけることができないでいるのは、IMをやっていた親友との対話。

東西ドイツ統一後、シュタージのドキュメントは閲覧可能になり、自分に関する調査書類も見ることができるようになった。(映画『善き人のためのソナタ』のラストのようなイメージ)

自分の資料に目を通し、自分の素行について報告を行っていたIMのコードネームを実名と照らし合わせたご主人は、自分を監視していたのが親友だったという事実に愕然としたという。
親友がIMだった時期は限られていて、彼が足を洗ってすでに20年近くが経とうとしている。まったく気がつかなかった。つい先日まで、何事もなかったかのように親しくしていた。仲間と集まって内密のはなしをするときには、部屋を提供してくれていた。自分が逮捕されたときには、妻の援助も買って出てくれていた。――それらすべてが、罪滅ぼしだった?

親友は、口を閉ざしたまま答えないという。


………


以前、ヨーンゾンの講演会で知り合ったおじいさんの身の上話を聞いたときも、大きな衝撃を受けた。
自分にとっては「ものがたり」に過ぎなかった歴史(ドイツ語だとどちらもGeschichte)が、たしかに色を帯びた瞬間だった。

今回のはなしも、自分の知っている「歴史」という「ものがたり」に色をつけてくれた。
ただの「知識」が、ようやく「現実」と結びつく。

それと同時に、自分はなにも知らないのだということを思い知らされる。

統一したといっても、このふたつのドイツの歴史の間には、未だに大きな大きな隔たりがある。
結局、「東ドイツの勉強をしたい」といっても、西側でぬくぬくと育った自分はなんにもわかっちゃいない。「知識」だけ蓄えても、なんの実感もわかない。


でも、「知る」ことすら当り前ではない時代だ。

前置きで資料館の職員さんが話していたけれど、現代史――東ドイツの歴史を授業で扱う学校は今も少ないらしく、問題になっている。10年前からちっとも変わっていないのだろうか。今、学校で教育を受けている子たちは、ほぼ全員、東西ドイツが統一したあとに生まれた子たちだというのに。

「わたしたちの身に起こったことを知ってほしいから、ここに来た」と、彼らはいった。

歴史を語る。それはただの「ものがたり」じゃなくて、本当に起こったこと。自分が生まれていた時代に、起こったこと。
わたしもドイツが統一したときは小学校低学年だったので、なにが起こったのかはさっぱり理解できていなかったけれど、生活はなんにも変わらなかったということだけはいえる。祝日が一日増えた「だけ」。首都が変わった「だけ」。ドイツの州が新たに5つ増えた「だけ」。その程度の変化。

要するに、統一しようとしなかろうと、西ドイツの人たちは(少なくとも80年代には)そこそこ平和に、豊かに暮らしていた。国境の向こうにあるもう一つのドイツで起こっていたことなんて、なんにも知らなかった。

東ドイツにも、平和に暮らしていた人たちはいるだろう。国の方針に従って慎ましやかに暮していれば、身を危険にさらすこともない。仕事も生活も保障される。たしかに、なにもいうことはない。彼らの目にはむしろ、統一したあとのドイツのほうが「ひどい国」に映るかもしれない。

「東ドイツはいい国だった」と、昔を懐かしむひともいる。
その一方で、壁が崩壊したことを心から喜んだひともいる。

言いたいことも言えない、
行きたいところにも行けない、
やりたいことさえできない。

統一しないほうがよかった、といえるひとは、東西ともに恵まれていたひとだったんだろう。

西側だけの問題じゃない。東側だって、当時の東ドイツの実態をわかっていない(わかっていなかった)ひとがたくさんいるんじゃないだろうか。


ナチスドイツの過ちを学校教育で念入りに扱うことに対して否定はしないけれど、それと同じだけの熱意で、戦後のドイツが歩んだ道についても教えるべきだと思う。「今」に直結しているからこそ。

過去を理解しようとしなければ、今、直面している問題を解決することなんて到底できない。


それはもちろん、自分の「しごと」も同じこと。

もっと勉強しなければ。
ここで見たこと、聞いたこと、すべてを還元できるようになりたい。

かれんだー

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ドイツ生まれ、ドイツ育ちの「なんとなく日本人」。根っからのラインラントっこ。

日本の大学院で現代ドイツ文学を勉強中。ただいま、ドイツにて「しゅっちょう」修行の旅の途中。今やすっかりメクレンブルクの空と大地と海に心を奪われています。
夢は、日本とドイツをつなぐ「ことばや」さんになること。

深刻になりすぎず、でも真剣に。
こつこつ、しっかり、マイペース。がんばりすぎない程度にがんばります。

2010年4月-9月までロストック(メクレンブルク・フォアポンメルン州)、10月-2011年3月までベルリンに滞在。再度ドイツに留学することが、今後の目標のひとつ。

ぽつぽつと、不定期的に過去の日記を埋めていきます。


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