ゆうゆう自適。
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寮の仲間のお部屋で、ドイツ対ガーナ戦を見てきました。
人数は15人くらい。初戦の30人に比べれば、おとなしいほう……なのかな。
壁にパソコンの画面を投影してみんなで見る、という本格仕様。
大迫力だけれど、最前列に座ってずっと壁を見上げていたので、ちょっと疲れた。そうか、最前列で映画見ているようなものだもんね。
応援Tシャツを着たり、ペイントをしたり、気合いの入っているひともいる。
でも、試合運びには特に興味がなく、ベランダでバーベキューに興じているひともいる。
それぞれ。
トーナメント進出がかかっていたので、みんなもっと騒ぐかなあと思いきや、意外とみんな静かに観戦していました。……いや、ドイツのプレーがあまりに危なっかしいので、じっと見ていざるを得なかった、というのが正しいのかも。ところどころでヤジが飛んだりして、「ひー、ナショナリズム全開!」とひやひやしたりも。(このあたりは割愛)
ゴールが決まった瞬間はみんなで歓声。
オーストラリアが(対セルビア戦で)ゴールを決めても歓声。
開け放したドアの外から聞こえてくるブブセラ。
外のほうが盛り上がっている?
試合終了後は、喝采こそあれ、割とすみやかに解散。
飲み足りない人たちは、そのまま夜の街へと繰り出した模様。
ホストと同じ寮内に住んでいるのは自分だけだったので、数人残った男性陣と一緒にお片づけ。この段階になってようやく「はじめまして」なひとたち(ホスト以外ほぼ全員)とちょっと話ができた。
日本でもドイツでも、すでにグループができているところに入っていくのは得意ではないので、ここはもうちょっとがんばらないとなあとしみじみ思う。みんなフレンドリーなのはわかっているんだし、あとは自分次第。
(今になって、強引でむちゃくちゃなところもあるけれど、なにかと気にかけてくれる上の隣人のありがたみがよくわかる)
手ぶらで行くのもな、ということでティラミスを作って持参したのだけれど、ホストの冷蔵庫に入れたまますっかり存在を忘れてしまい、終わり際に「そのまま持って帰ってもいいよ」と言われる始末。
えええ、それはあまりに切ない!ちょっとだけでも食べない?とねばってみたところ、「ステーキ4、5枚食べて満腹だよ」という答えが返ってきた。そんなに食べたんか!やっぱりドイツ人パーティーには肉を持参したほうがいいのか……!
仕方ない持って帰るか、と思いはじめたところで、
ホストをはじめ、その場にいた男性陣「一口だけでも……」とちょっとずつ食べてくれた。なんだかんだで、半分くらい。ジェントルメン……!
フィンガービスケットが水っぽくなりすぎたのがちょっと残念だけれど、ひとまず「食えたもんじゃない」という類の酷評は出てこなかったので、一安心。(凍らせたらもっとおいしくなるんじゃない?というアドバイスが誠実な感じで、むしろ嬉しかった)
次はもっとガッツを出します。おー!
ゼミに出てから電車に飛び乗って、2時間半。
メクレンブルクから、ベルリンへ。旧東ドイツから、西ドイツへ。
つい2か月前、ここからロストックへ出発した。
その「はじまりの場所」に、今、また立っている。なんだか不思議な感じ。
駅ナカあるよ!いろんな言語が聞こえるよ!観光客たくさんだよ!……と、最初に訪れたときには特に気にしなかった事柄に、逐一反応してしまう。こんな駅、ドイツでほかに見たことない。そういえば、7年前に観光で来たときは、まだ完成していなかったんだよなあ。
ベルリン在住の友人と中央駅で待ち合わせをして、まず、朗読会の会場である芸術アカデミーに予約したチケットを取りに行く。
路線図を見て、「(地下鉄の駅はここで、この駅に一番近いSバーンの駅はここだから、)この駅で降りればいいと思う!」とカンで主張したら、見事に外れて初っ端から友人に迷惑をかけるはめになる。あー、路線図上、地下鉄と普通電車(Sバーン)の駅が近そうに見えても、実際そうとは限らないってことね。(冷静に考えてみれば、東京のJR・メトロ・都営の路線だって似たようなものじゃないか!ばか自分!)いかん、感覚がロストック基準になってる……!
芸術アカデミーで無事チケットを受け取る。電話で名前を伝えただけだったから、本当に確保してもらえているのか心配だったけれど、まったく問題なかった。
そのまま、併設されている書店のブースをのぞいてみる。なんと、来週発売のヴォルフの新刊が並んでいるではないですか!「この本は購入可能ですか?」と思わず確認してしまった。もちろん、ということだったので、その場で即購入。ふう、先走ってアマゾンで予約しなくてよかった!
その後は、ホテルに行ってチェック・イン。ベルリン・エキスパートがいてくれたおかげで、スムーズに到着。うーん、ベルリン歴6、7年の彼には到底及ばないだろうけれど、半年ほど暮らしたらちょっとは詳しくなれるんだろうか?どうもロストック市内みたいにさくっと移動できるような気がしないんだよねえ。(まあ、東京に7、8年住んでいたって隅々まで詳しくなるわけじゃないしね……)
友人とシュパーゲル(白アスパラ)ディナーをして、いざ、朗読会へ。
かなりぎりぎりの到着になってしまって、もはやステージ後ろの席しか残っておらず。むむ。でも、クリスタ・ヴォルフ本人がステージに登場するところは見えたし、スクリーンも設置されていたので、きちんと彼女の姿を拝見することはできました。杖をついて歩く彼女を見て、今更ながら彼女が高齢であることを実感した。そうだ。81歳になったんだものね。
ヴォルフがこちらに背中を向けて話しているのは当然の結果だけれど(開始前に後ろを振り返って謝罪をしていた。気配り!)、進行を務める作家、インゴ・シュルツェがなぜか始終ほぼ正面から見えていて、なんだか奇妙な感じ。
おなかに深く響く、よく通る声で新作を朗読するヴォルフ。張りのある声。
声や、トークの調子を聞いただけでは、とても80を超えたおばあちゃんとは思えないパワフルさ。さすがです。貫禄ある。
新作はヴォルフの自伝的小説。彼女が1993年から94年にかけて、ロサンゼルスで生活していたころのはなし。ちょうどヴォルフのシュタージへの関与が明らかになった直後のことで、「半ば逃げるようにドイツを去った」とのこと。
そんな重苦しいテーマを扱った本なものだから、えっ、そこで!? と思うようなところで会場がわっと湧いたりしたときは、ちょっとびっくりした。たしかにくすっとなるエピソードもあったけれど、ほとんど笑いを共有できなかったな……うーん、わかるひとはわかるの?
ただ、今回朗読された断片を聞いた限りでは、重苦しいだけのはなしではなさそうなので、全編通して読むのを楽しみにしたいと思います。
朗読会終了後、なんとサイン会が開かれることに!事前に購入した新刊を持ってきたので、すかさず列に並んでヴォルフ待ち。
なにか話したらいいんだろうか、あああ、でも、なにを話したらいいんだろう、わああ!と内心ひとりで騒いでいる間に順番が回ってきてしまい、結局本人を前にして「ありがとうございました」のひとことしか言えず。もう、このへたれめ!
でも、にこっと笑いかけてくれたよ。ああ、わたしこの人の作品で論文を書いたんだな……と思うと、とても感慨深い。
いやあ、ベルリン悔いなし。
一日目だけでそう思った。
当初は朝一番で帰るつもりだったので、まったく予定が立っていない。せっかくだから、自分に関係がありそうなところに行くか!ということで、2006年に開館されたばかりのDDR(旧東ドイツ)博物館と、シュタージ博物館に行ってきました。
DDR博物館は、「旧東ドイツの生活を体験してみよう!」という体感型の博物館。ベルリン大聖堂の向かい側にあります。
トラバントに乗ってみたり(運転シミュレーションもできるらしい)、FDJ(自由ドイツ青年団)の制服を見たり、西ドイツ・東ドイツのジーンズを見比べたり。旧東ドイツの生活をあちらこちらで垣間見れる作りになっています。
旧東ドイツで放映されていたテレビ番組を視聴することもできて、なんとロストックの都市計画について紹介するドキュメンタリもありました。これはタイムリー!景色や地名がわかると、俄然おもしろくなる。
しかし、しかし、
旧東ドイツではヌーディズム文化が盛んだったんだよ!というはなしは、ちょっと意外でびっくりした。むしろ国の性質的にアウトなんじゃないの?と思いきや、「自由と平等の象徴」として、ヌーディズムを認めさせようとする運動が徐々に高まっていったのだそうです。なるほど。
開館直後に行ったにもかかわらず、遠足(あるいは修学旅行)のグループとはち合わせて、館内を回るのが少し大変だった。ガイドが、なかなか動かない。……すごく丁寧に説明しているのはわかるんだけれど、いつまで経っても目的のパネルが見られないのはちょっとツライ。
途中でアンペルマン・ショップを冷やかしたり、赤の市庁舎を一目見たり。『舞姫』の舞台になったというマリエン教会は、7年前に訪れたときには工事中だったけれど、外観の工事は完了していました!なので、記念の写真をぱちり。
ふふふ、この7年の間にちゃんと読みましたよ、『舞姫』。今回こそは「この教会でエリスが……」と言える!(当然ながら威張れたことではない)
手元にあるドイツ語のガイドブックによると、シュタージ博物館は「カール・マルクス通りをひたすらまっすぐ歩いて」いけば着くらしい。大層アバウトな説明だけれど、だいじょうぶなのか。
う、あ、こ、この本屋さん!映画『善き人のためのソナタ』で、ヴィースラーがドライマンの本を買った本屋さんじゃない!? えええ、この通りにあったの?これは嬉しい誤算だ……。
ちょっとのぞいて見ようかな、と思ったけれど、一般の書店というよりは出版社みたいな感じでやや入りづらかったので、外から見るだけ。映画の中の本屋さんとは内装も違うし、セット用に変えたのか、それともあとから変わったのか……。
その後も歩く、歩く。やっぱりいつまで経っても、一向にたどり着く気配がない。
3駅歩いてようやく「なにかがおかしい」と思いはじめ、図書館で借りてきた別のガイドブックを開く。詳細な地図でチェックすると、シュタージ博物館はたしかにこの通りの延長にはあるものの、更に3駅先にあった。
………
最初のガイドブックの説明通りに歩いていたら、一時間、ひたすら歩くことになりかねなかった……。ああもう、なんなの、あの不親切設計!? せめて最寄り駅くらいカッコつきで書いたっていいじゃないか、と思う。(ちゃんと事前に確認しなかった自分にも落ち度はあるんだけどさあ)
ここでも建物群の案内がわかりづらくて散々迷った。ベルリンを散策するときは時間に余裕を持っていかないとかなりマズイ、そんな気がする。
ロストックもそうだったんだけれど、シュタージ関係の建物は、もう外観からして負のオーラを放っているような気がする。パンフレットに載っている写真は曇天で、狙っているんじゃないかと思うくらいに(いや、恐らく狙っているんだと思うけれど)おどろおどろしい。
ほんとにここ?と一瞬入るのをためらったけれど、入口に小さく「シュタージ博物館」と書いてあったので、思い切って入ってみる。
「ここのパネルは全部ドイツ語だけどだいじょうぶ?あなたドイツ語できるわね?」と、受付のおばちゃんに念を押された。ふむ、「観光客向け」の博物館ではないのね。どちらかというと、資料館に近いんだろうな。
ここでも学生の団体とばったり。この博物館はいくつもの小部屋に分かれているので、ガイドが学生と一緒に一室に入ってしまうと、それだけで出入りが非常に困難になる。いくつか順番を無視して、先回りする必要があった。パネルを読むのに時間がかかる分、DDR博物館以上にツライ。
興味深かったのは、盗聴器・盗撮器のコーナー。
石のイミテーションに盗聴器を仕込んで道端に置いた、というのは序の口。木の幹に仕込んだり、トラックにこっそり隠したり、電柱に埋め込んだりと、もう、あの手この手です。じょうろの中とか、聖書のページの間(!)とか、そのクリエイティヴな発想に脱帽。そりゃあ、一般市民も気がつかないはずだ。
シュタージのオフィスも公開されていて、こちらは『善き人のためのソナタ』でも使われたのだそう。どこかで見たことあるなあとは思っていたけれど、気がついたのはあとになってから。いやあ、びっくりした。
パネルを読んで、当時の資料のコピーを拝見して、写真も見て、あっという間に時間がすぎた。情報量が膨大すぎて、ほんの1時間ちょっとじゃ全然足りない。うーん、ブッデンブローク・ハウスみたいにパネル情報の収まったパンフレットがあればいいのに。贅沢?
ベルリン市内を移動するという感覚がまったくわからず、友人との待ち合わせに30分以上遅刻した。感覚がロストック基準に(以下略)
ほんとうにごめんなさい。
無事友人と合流して、ベルリン自由大学のキャンパスを案内してもらいました。図書館がすごい!ヨーンゾン関係の本もたくさん入っていたし、絶版になっている本もあった(それも2冊も!)。さすがベルリン。
古本屋のコーナーでは、ヨーンゾン愛読者というおじさんを紹介してもらった。
本人いわく、ゲルマニストではない……とのことだけれど、ものすごくヨーンゾンを読み込んでいて、お話していてすごく楽しかった。いつぼろが出やしないかとヒヤヒヤもしたけれど、ヨーンゾンの講義やゼミに出たり、メクレンブルク内をぐるぐるした甲斐もあって、どうにかこうにか渡り合えた気がする!ドイツに来る前の自分だったら、確実に無理だった。
まだまだ足りないけれど、ちょっとずつ、蓄積されているんだろうか。
往復5時間、滞在25時間。
とてもとても濃厚な「遠足」でした。
行くか行くまいか迷ったけれど、来てよかった。本当によかった。
ロストックに来て2か月、はじめての「お客さん」が遊びに来ました。
ロストック滞在中の「裏ミッション」は「ロストックを紹介する」ことなので、いよいよ行動開始です。みっしょん・すたーと!
「自分のお気に入りの場所を紹介しよう!」と思い立って、
・旧市街
・Kröpeliner通り
・ヴァルノウ川のプロムナード
・Gehlsdorf(フェリー)
に連れて行ったら、なんと疲れさせてしまった
しまった、長旅で疲れている人を更に疲れさせてしまうなんて、失態!
「ごめん、お気に入りの散歩コースを紹介しようと思って」と言ったら、
「体力あるね」と返された。
……もしかしなくとも、やたらと散歩するせいで脚力がついたんだろうか……。
ストップ入らなかったらGehlsdorfでも往復40分くらい歩くところだったよ、本気でごめん。
翌日は気を取り直して、やはりお気に入りの場所・ヴァルネミュンデへ。
ロストックまで来て、バルト海を見ずに帰ってもらうわけにはいかない!ドイツで海を見る機会なんて(たぶん)そうそうないんだから!
雨の晴れ間!気持ちのいいお散歩日和!
天気予報では雨って聞いていたから、晴れて本当によかった。ここ数日間、天気予報が外れまくっているけれど、今日に限ってはいいほうに転んだな。(朝は雨が降っていたので、厳密にいえば外れてもいないんだけれど)
今回は、ランドマークである灯台に登ってみました。
ヴァルノウ川が一望できます。河口も見える!
反対側には、どこまでも果てしなく続くバルト海。うーん、何度見てもすばらしい景色。飽き足らない。
展望台からはヴァルネミュンデのビーチも見ることができます。上から見ると、トラーヴェミュンデで歩いたプロムナードによく似ている。そっちにも行ってみたいけれど、地図に書いてある「FKK(裸体礼賛運動?)ビーチ」の前にしり込みする。うーん。見えちゃうのかなあ。
バルト海の波は、短いのだそうです。
低地ドイツ語でいうと、ヨーンゾン曰くkabbelig。
Das Wort für die kurzen Wellen der Ostsee ist kabbelig gewesen. (Jahrestage1, 7)
バルト海の短い波を指す言葉は、kabbeligといった。
……方言に関しては、今のところ気のきいた翻訳が思い浮かばないので、そのままに。
夜はお魚を食べに行きました。
ひとつは、ヨーンゾン学会のときに知り合った先生に教えてもらったお店。もうひとつは、ガイドを参考にして探したお店。2件目のお店は雰囲気がすごくすてきで、次にお客さんが来たときには、ぜひともここに連れてきたい。ロストックビールあるし!
ちょっとでも、ロストックという街を楽しんでもらえたなら、いいな。
ああ、それにしても、ロストックで(人と向かい合って)日本語しゃべったのはじめてなので、なんだか不思議。
おまけ。
中央駅のカフェで食べた焼き菓子。
Hanseaten(ハンザ同盟都市の市民)という。
イチゴジャムとお砂糖のコーティングしたビスケット・サンド。中にもジャムが挟んであります。美味。
これは地方のお菓子?それとも単に「東京××」みたいな名前をつけただけ?
ぐーぐる先生に尋ねてみたら、「Hanseaten」で同じ画像がいくつか出てきたので、ご当地のお菓子と思ってもよさそう。
でも、近所のカフェでは見たことないな……。
ロストックでは新聞は取っていないのですが、週1、2回届く情報誌(コミュニティ新聞みたいなもの)にはよく目を通しています。
さて、今週はどんな催しものがあるかなーとぼんやり紙面をながめていたら、「Stasi」(旧東ドイツの国家保安省、通称シュタージ)の文字が目に飛び込んできた。ロストック市内にあるシュタージ資料館で、かつて「国外逃亡を企てた罪」でシュタージに逮捕された夫婦が、自身の体験談を語るとのこと。
東ドイツ関係の勉強をしている身としては、この貴重な機会を逃すわけにはいかない!というわけで、行ってきました、資料館。前から行こう行こうとは思っていたけれど、どうせならツアーをやっている日がいい、ということで後回しになっていたんだった。
建物自体は文学部の校舎の隣にあって、何度か外から見たことはあったけれど、まさか迂回をしなければ入れない構造になっているとは思わなかった。入り口見つからなくて焦ったー。
今となっては「資料館」だけれど、旧東ドイツ時代は留置場でもあったこの建物は、なんとも重苦しい空気に包まれていた、……ような、気がする。
どきどきしながら足を踏み入れる。どこに行けばいいのかわからなかったので、とりあえず前の人について階段を上ろうとしたら「違います、こっちです!」と職員に地下に誘導された。地下か!それは想定外。
窓ひとつない地下のセミナー室。ほぼ満席。重苦しさもピーク。
ざっとあたりを見回してみると、トークゲストとほぼ同年代(50代~70代くらい?)のひとが圧倒的に多かった。この中では学生はマイノリティ。そして(やはりというかなんというか)非ヨーロッパ系と思しき外国人は自分ひとりだった。
2時間強のトークは、それはそれは濃厚だった。
ただ、自由に生きたかった。それだけの理由で、未来が閉ざされてしまう恐怖。
ご主人は戦前の生まれ。東ドイツという国ができたころには、すでに物ごころはついていた。
1970年代当時、海軍で働いていたご主人は、ある日を機に政府のありかたに疑問を持つようになり、東ドイツを去るつもりでいることを親しい人たちに伝えた。もっとも信頼していた親友が、シュタージの非公式協力者(Inoffizielle Mitarbeiter、IM)であったことも知らずに。
自分に近しい人間がIMかもしれないだなんて、誰が考えるだろう。心から信頼している相手が、裏では自分を政府に売り渡しているかもしれないだなんて、誰が考える?当時、東ドイツ市民の4人に1人はIM(その多くが期限つき)だったというし、クリスタ・ヴォルフやハイナー・ミュラーら著名人にもIMだった時期があるわけだけれど、「身近な人間がIMである可能性」が日常的にありえたことに改めて衝撃を受けた。
しばらくして、ご主人はシュタージに逮捕された。実刑2年。
奥さまと出会って、結婚して、子どもの誕生を控えていたときだったという。
奥さまとご主人は年齢が幾ばくか離れていて、奥さまが生まれたのは東ドイツが建国されたあと。
東ドイツの教育を受けた奥さまは、東ドイツという国のありかたに疑問を覚えたことはなかったらしい。「こういうものなんだ」と、ごく自然に現状を受け入れていた。自然な流れで社会主義統一党にも入党。子どもが好きで、学校で先生をしていた。
ご主人から逃亡の計画を聞かされていなかった奥さまは、なぜ彼が逮捕されたのかがわからず(ご主人は、未遂に終わった計画を話すことで奥さまを「共犯」にしてしまう事態を避けたかったとのこと)、混乱したものの、彼を信じて待つことにした。その間、シュタージが何度も何度も「生まれてくる子どもの父親が前科持ちだと教育に良くないから」と離婚を勧めてきたというから恐ろしい。(この圧迫にも耐えて毅然とご主人を待っていたというのだからすごい……)
それから10年。
ご主人は、奥さまが自分の意思で東ドイツを出たいというまで、自分からは動かない決意をしていた。
そんな折に、東ドイツは「女性も必要に応じて徴兵する」という声明を発表した。自分も娘もそんなばかげたことにはつきあっていられない、と、奥さまはご主人に「この国を出たい」と伝えたという。
東ドイツ政府にオーストリアへの出国を申請したものの、あっさりと拒否された彼らは、家の窓に「A」の文字(Ausreiseantrag-出国申請を出した、という印)を飾って、国を出る決意をしたことを公の場に向かって発信する。国を侮辱したという罪で奥さまは(子どもたちに害なす存在として)保育士の職を失い、ほどなくしてふたりとも逮捕されることに。
小学生の娘に事情を伝えることができないまま、取り調べを受けるふたり。
ご主人は即刑務所へ。奥さまは、正式な逮捕状が出るまで――明日かもしれないし、数ヵ月後かもしれない――は執行猶予がつくことに。
最終的にはふたりで2年弱の刑期を乗り切り、その後、全財産を放棄することを条件に西ドイツへ渡ることが許される。少々時間がかかったものの、東ドイツに残してきた娘や親も呼び寄せることができ、以来、ハンブルクで暮らしているという。
(ただ、娘さんたちを呼び寄せるにしても、「東ドイツに住んだことのない人間(=西ドイツ国民)しか迎えに寄こすことができない」「出国の日は東ドイツ側が決め、24時間以内に出国しなければいけない」……と、西ドイツに知り合いのいないご夫婦は死に物狂いで協力してくれる人を探し、その間、生きた心地がしなかったという。幸い、親戚の知人の好意により無事、家族を呼び寄せることができた)
途中で娘さんも証言をしたのだけれど、「ある日、学校から帰ったら母親の姿はなく、見知らぬ男の人が複数名家を取り調べていた」光景を目の当たりにしたときの恐怖は相当なものだったことだろう。
20年以上の時を費やして、少しずつ、少しずつ過去と向き合ってきた家族。
今もまだ、話せていないこと、理解できていないことや誤解していることがたくさんあるという。
決着をつけることができないでいるのは、IMをやっていた親友との対話。
東西ドイツ統一後、シュタージのドキュメントは閲覧可能になり、自分に関する調査書類も見ることができるようになった。(映画『善き人のためのソナタ』のラストのようなイメージ)
自分の資料に目を通し、自分の素行について報告を行っていたIMのコードネームを実名と照らし合わせたご主人は、自分を監視していたのが親友だったという事実に愕然としたという。
親友がIMだった時期は限られていて、彼が足を洗ってすでに20年近くが経とうとしている。まったく気がつかなかった。つい先日まで、何事もなかったかのように親しくしていた。仲間と集まって内密のはなしをするときには、部屋を提供してくれていた。自分が逮捕されたときには、妻の援助も買って出てくれていた。――それらすべてが、罪滅ぼしだった?
親友は、口を閉ざしたまま答えないという。
………
以前、ヨーンゾンの講演会で知り合ったおじいさんの身の上話を聞いたときも、大きな衝撃を受けた。
自分にとっては「ものがたり」に過ぎなかった歴史(ドイツ語だとどちらもGeschichte)が、たしかに色を帯びた瞬間だった。
今回のはなしも、自分の知っている「歴史」という「ものがたり」に色をつけてくれた。
ただの「知識」が、ようやく「現実」と結びつく。
それと同時に、自分はなにも知らないのだということを思い知らされる。
統一したといっても、このふたつのドイツの歴史の間には、未だに大きな大きな隔たりがある。
結局、「東ドイツの勉強をしたい」といっても、西側でぬくぬくと育った自分はなんにもわかっちゃいない。「知識」だけ蓄えても、なんの実感もわかない。
でも、「知る」ことすら当り前ではない時代だ。
前置きで資料館の職員さんが話していたけれど、現代史――東ドイツの歴史を授業で扱う学校は今も少ないらしく、問題になっている。10年前からちっとも変わっていないのだろうか。今、学校で教育を受けている子たちは、ほぼ全員、東西ドイツが統一したあとに生まれた子たちだというのに。
「わたしたちの身に起こったことを知ってほしいから、ここに来た」と、彼らはいった。
歴史を語る。それはただの「ものがたり」じゃなくて、本当に起こったこと。自分が生まれていた時代に、起こったこと。
わたしもドイツが統一したときは小学校低学年だったので、なにが起こったのかはさっぱり理解できていなかったけれど、生活はなんにも変わらなかったということだけはいえる。祝日が一日増えた「だけ」。首都が変わった「だけ」。ドイツの州が新たに5つ増えた「だけ」。その程度の変化。
要するに、統一しようとしなかろうと、西ドイツの人たちは(少なくとも80年代には)そこそこ平和に、豊かに暮らしていた。国境の向こうにあるもう一つのドイツで起こっていたことなんて、なんにも知らなかった。
東ドイツにも、平和に暮らしていた人たちはいるだろう。国の方針に従って慎ましやかに暮していれば、身を危険にさらすこともない。仕事も生活も保障される。たしかに、なにもいうことはない。彼らの目にはむしろ、統一したあとのドイツのほうが「ひどい国」に映るかもしれない。
「東ドイツはいい国だった」と、昔を懐かしむひともいる。
その一方で、壁が崩壊したことを心から喜んだひともいる。
言いたいことも言えない、
行きたいところにも行けない、
やりたいことさえできない。
統一しないほうがよかった、といえるひとは、東西ともに恵まれていたひとだったんだろう。
西側だけの問題じゃない。東側だって、当時の東ドイツの実態をわかっていない(わかっていなかった)ひとがたくさんいるんじゃないだろうか。
ナチスドイツの過ちを学校教育で念入りに扱うことに対して否定はしないけれど、それと同じだけの熱意で、戦後のドイツが歩んだ道についても教えるべきだと思う。「今」に直結しているからこそ。
過去を理解しようとしなければ、今、直面している問題を解決することなんて到底できない。
それはもちろん、自分の「しごと」も同じこと。
もっと勉強しなければ。
ここで見たこと、聞いたこと、すべてを還元できるようになりたい。
ロストックに関する本をぺらぺらとめくっていたら、「ロストックの名誉市民」のリストが目にとまった。
ロストックの名誉市民といったら、作家のヴァルター・ケンポフスキーくらいしかわからないな、と思いながら、リストを追ってみる。1816年から順々に。
すると衝撃の事実が発覚。
ヒットラーが、ロストックの名誉市民になっていた……。
1933年に名誉市民権を獲得、1990年に剥奪。
……なんで?
いや、いろいろと。
1. ヒットラーはロストックに縁があったのか。
2. 「1990年に剥奪」ってことは、1989年までは名誉市民だったってこと?いくらなんでもそれはないだろう。
よくよくリストを見てみると、1990年、すなわちドイツが統一された年に名誉市民権を剥奪されている人はほかにも何人かいる。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党員(ヒットラー含む)2人と、ドイツ社会主義統一党(SED)の党員3人。
SEDに関しては、東ドイツが存在している限り名誉市民権の剥奪はできなかったはずなので、統一後の剥奪になったのはわかる。でもNSDAPの2人はなんで40年以上も経ってからの剥奪になったんだろう。
気になったので、ちょっと調べてみました。
(手元に本がないので出典はWIKIPEDIA)
まず、ヒットラーは4000もの市町村の名誉市民になっていたそうで、ロストックと深いかかわりがあったわけでもないらしい。(名誉市民になった、というよりは、名誉市民にさせた、というほうが正しいんだろうな)
また、1946年には「戦争犯罪者の名誉市民権剥奪」が法律によって定められたので、この時点でNSDAPの党員は名誉市民権を喪失していることになる。さらにドイツでは名誉市民権は一般に「死んだら無効」になるらしく、わざわざ剥奪する必要もない……という意見もあるとのこと。
すでに失われている名誉市民権を、改めて剥奪するということには象徴的な意味がある。ベルリンは1948年の時点でヒットラー(とその仲間たち)から市民権を剥奪したらしい。
「戦争犯罪者(およびそれに準ずるもの)から名誉市民権を剥奪する」という動きは今日でも続いています。なんで今更?という疑問を誰しもが抱きそうなものですが、単に「ヒットラーが名誉市民権を与えられているのを知らなかった」というのが真相らしいです。デュッセルドルフは2000年になってようやく「名誉市民ヒットラー」の黒歴史に突き当たったらしい(※2000年という説と、2004年という説があります。sueddeutsche.deによると、「ヒットラーがデュッセルドルフの栄誉市民になっていたことが発覚したのが2000年」。WDR.deによると「2000年に剥奪決定」となっているので、2000年説が濃厚)。知らなかったよ!とびっくりしたけれど、知らなかったのはわたしだけじゃなくて、街そのものがすっかり忘れ去っていた模様。どうやらこれはデュッセルドルフだけのはなしではなくて、今年に入ってからも名誉市民権剥奪を行っている市町村があることからも、「発覚してびっくり」のケースはほかにもたくさんあるのでしょう。
Mönchengladbach-Rheydtが終戦後、早々にゲッベルスから名誉市民権を剥奪していることを考えると、おいおいしっかりしてくれよ、と思わなくもない。フランクフルトもハンブルクもミュンヘンも、大都市はすぐに動いているじゃない……と思いきや、以外なことにケルンも遅れを取っている。まあ大変。
ロストックの名誉市民リストには、ほかにもビスマルクの名前が連なっている。
これも名誉市民にさせたのか?と思いきや、名誉市民権を与えられたのはドイツ国首相をクビになったあと(1895年)なので、そうでもないらしい。
じゃあ、なにかしらの縁がある?
ぱっと思いつくのは、ビスマルクが「メクレンブルクって、50年くらい時代から取り残されているよね」と暴言を吐いたという逸話と、「ビスマルクニシン」(シュトラールズントの名物。ビスマルクの好物で、この名前がついたらしい)があるくらい?
またまた調べてみる。
WIKIPEDIAによると、帝国国会がビスマルクの80歳の誕生日を無視したことから、ドイツ全土(450の市町村)で「ビスマルクに敬意を表すために名誉市民権を与えよう!」という動きが起こったそうです。それが1895年。そうだったんだ!
つまり、その街に縁もゆかりもなくても、名誉市民にはなれるらしい。
うーん、勉強になった。
かれんだー
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りんく
かてごり
最新とらっくばっく
ぷろふぃーる
日本の大学院で現代ドイツ文学を勉強中。ただいま、ドイツにて「しゅっちょう」修行の旅の途中。今やすっかりメクレンブルクの空と大地と海に心を奪われています。
夢は、日本とドイツをつなぐ「ことばや」さんになること。
深刻になりすぎず、でも真剣に。
こつこつ、しっかり、マイペース。がんばりすぎない程度にがんばります。
2010年4月-9月までロストック(メクレンブルク・フォアポンメルン州)、10月-2011年3月までベルリンに滞在。再度ドイツに留学することが、今後の目標のひとつ。
ぽつぽつと、不定期的に過去の日記を埋めていきます。

